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Saturday, January 14, 2006

アルバトロス社

アルバトロス社は第一次世界大戦で、活躍した戦闘機を製造したドイツの航空機製造メーカーである。
1910年にベルリンに設立され、第一次世界大戦に活躍したアルバトロスD.Ⅲ、アルバトロスD.Vで知られる。1931年にフォッケウルフ社に吸収された。

世界初の航空輸送会社

1909/11/16 世界初の航空輸送会社として、ドイツのDELAG(ドイツ航空会社)が設立される。

グラーデ単葉機

グラーデ単葉機(グラーデたんようき)は、日本初の動力飛行に使われた飛行機のひとつである。徳川好敏大尉のファルマン機とともに日野熊蔵大尉によって、1910/12/19、公式飛行を行った。

製作者のハンス・グラーデ(1879年-1946年)はドイツでの最初の動力飛行に成功したパイロットである。1909年1月自製機での飛行に成功した。グラーデ単葉機は24馬力のエンジンの小型機で、ファルマン機が複座の50馬力の機体であったのにくらべて、大きさ・重量・価格とも小さく、現代でいえばマイクロプレーンに印象の近い機体である。レプリカが各務原市の「航空宇宙博物館」に展示されている。スペックについては資料により諸説ある。

要目
* 全幅 10.5m
* 全長 7.5m
* 自重 225kg
* 最大速度 58km/h
* 航続時間 3時間

ハンス・グラーデ

ハンス・グラーデ(Hans Grade, 1879/5/17 - 1946/10/22)はドイツの航空のパイオニアである。1908年10月自作の三葉機で初飛行した。1909/10/30、単葉機"Libelle(とんぼ)"で一定の間隔のパイロン間の8の字飛行をしたドイツ機に与えられる懸賞飛行Lanz-Priceを獲得した。

1903年からオートバイを作っていたが、1907年ころから飛行機を作り始めた。1910年にマクデブルクに飛行機会社をつくった。第1次大戦中は軍用機の修理などをした。戦後は飛行機会社をオーストリアのAVIATEKに売却して、自動車会社をおこした。

ブレリオXI

ブレリオXIはフランスの初期の航空機である。ルイ・ブレリオが1909/7/25ドーバー海峡を横断するのに用いた飛行機である。
30kmあまりの長さのドーバー海峡横断飛行は初期の航空史のイベントの一つであり賞金のかかった飛行であった。アントワネット単葉機で挑戦した ユーベル・ラタムと最初の横断飛行成功を競い合った。ラタムは1909/7/19に挑戦して不時着水している。ブレリオは最初の挑戦でエンジンのオー バーヒートに悩まされながら38分間で海峡をわたりきった。
ブレリオXIはフランスの初期の航空機である。ルイ・ブレリオが1909/7/25ドーバー海峡を横断するのに用いた飛行機である。
30kmあまりの長さのドーバー海峡横断飛行は初期の航空史のイベントの一つであり賞金のかかった飛行であった。アントワネット単葉機で挑戦した ユーベル・ラタムと最初の横断飛行成功を競い合った。ラタムは1909/7/19に挑戦して不時着水している。ブレリオは最初の挑戦でエンジンのオー バーヒートに悩まされながら38分間で海峡をわたりきった。

要目
* 乗員:1
* 全長:8 m
* 翼幅:7.8m
* 全高:2.6 m
* 翼面積:14 m²
* 重量:300 kg
* エンジン:アンザス3気筒
* 出力:22-25HP
* 最大速度:58 km/h

ガブリエル・ヴォアザン

ガブリエル・ヴォアザン(Gabriel Voisin, 1880/2/5-1973/12/25)はフランス航空界のパイオニアである。弟のシャルル・ヴォアザン(Charles Voisin1882年-1912年)とともに、初期の航空機の開発をおこなった。

1899年にグライダーによる飛行実験を開始し、1903年~1905年の間はルイ・ブレリオと共同の会社を設立している。1905年にフランス航空クラブ会長のアルシュデック(Ernest Archdeacon)の注文でフロートをつけた水上グライダを製作した。1907年ドラグランジュの注文で製作したヴォアザン・ドラグランジュ1型機が、シャルルの操縦で60mのジャンプに成功し、ヨーロッパ2番目の動力飛行になった。

1912年から、軍用機の製作をはじめた。ボアザン機の特徴は流線形のナセルに乗員が乗って、その後に推進式のプロペラを配置して、尾翼は2本のビームで支えるというものである。1914年10月5日、ヴォアザン複座機がアヴィアティック複座機を撃墜したのが、初の空中戦での撃墜記録とされている。 その形式のために、戦闘機として使われなくなった。

ルイ・ブレリオ

ルイ・ブレリオ(Louis Charles-Joseph Blériot, 1872/7/1- 1936/8/2)はフランスの航空のパイオニアである。1909/7/25ドーバー海峡を自分の設計した飛行機で始めて横断した。カレーからドーバーまでを37分で飛行した。

1900年ころから飛行機に興味をもって「はばたき機(ornithopter)」の製作を行ったが、飛行できなかった。1903年にはガブリエル・ヴォアザンとブレリオ・ヴォアザン社をつくり、アントアネットエンジンの複葉機などを製作した。1906年に会社は解散し、ブレリオは自分の設計の飛行機を飛ばすことになった。

軽量なエンジンが入手できるようになるといろいろな形式の機体(箱型複葉・推進式単葉機など)を製作した。ブレリオVは世界最初の実用単葉機であったが、1907年に事故で失われた。ロンドン・デーリー・メール社の懸賞飛行のドーバー海峡横断飛行のためにブレリオXIをつくり、航続飛行のヨーロッパ記録36分55秒を作った後、海峡横断に成功した。

Tuesday, January 03, 2006

ティルトローター

ティルトローター (tilt-rotor, tilirotor) とは、垂直離着陸のための手法のひとつで、ローター(プロペラに似た回転翼)を、機体に対して傾ける(ティルトする)ことでヘリコプターの様な離着陸を可能にするローターである。

ティルトローターを装備した機体(ティルトローター機)は、外見はプロペラ機に似ているがローターの角度を変えることでヘリコプターのように垂直上昇ができる。上昇後はローター軸を前方に向けて普通のターボプロップ機のように飛行する。このホバリングから水平飛行への遷移の際の姿勢制御が難しいようであるが、2005年現在それを理由とする墜落事故はV-22では起きておらず、現状ではさほど問題とはなっていない。

発動機を機体内に装備し、推進軸の方向のみを変更する方法もあるが、現在実用化されているのはエンジンをナセル(容器)ごと回転させる方式のみである。

ヘリコプターに比べ、最高速度が大きく航続距離が長いなどの利点がある。

ヘリコプター

ヘリコプターは、16世紀、レオナルド・ダ・ヴィンチが最初に構想した。しかし、当時は空想上の産物でしかなく、その構想が現実味を帯び始めたのは20世紀になってからであった。(かの有名なエジソンも燃焼の反動を利用したヘリコプターを研究したが、爆発事故が発生した為(負傷者無し)、研究を打ち切っている)

1907年フランスのポール・コルニュ(Paul Cornu)が約2mの高さで20秒間のホバリングに成功した。

実際に、きちんと飛行できるヘリコプターが最初に飛行したのは、ハインリッヒ・フォッケにより1936年にベルリンで開発されたFocke-Wulf Fw61である。

ロシアから米国へ亡命したイゴーリ・シコルスキーもヘリコプターのパイオニアの一人で単ローター、尾部ローター付という、現在の主流の形式のVS-300を1939年に初飛行させた。

ヘリコプターはローターの垂直方向の角度(ピッチ角)や回転軸の傾きを調整することによって、非常に複雑な動きができるようになっている。例えば、垂直上昇や垂直降下、空中停止(ホバリング)のほか、機体の向きを保ちながら真横や後ろに進む事もできる。

このようなヘリコプターの性質は、狭い場所や複雑な地形での活動に向いており、軍用以外にも山岳地や海上などにおける物資の輸送や、遭難者の救助、報道取材、農薬散布などの産業航空用に適している。

しかし、翼の固定された航空気に比べると、一般に速度が遅く、燃費も悪く航続距離も短い。この点を改善しようという試みが、ティルトローターやティルトウィングである。

世界初のヘリコプター

1907/11/13、ポール・コルニュが世界初のヘリコプター飛行(浮上のみ)に成功する。

ポール・コルニュ

ポール・コルニュ(Paul Cornu:1881 - 1944)は、最初のヘリコプターによる飛行を行ったとされるフランス人である。

自転車製造をおこなっていた、ポール・コルニュは2つの回転翼を持った、ヘリコプターを製作した。24馬力のエンジンで、1907/11/13、20秒間、30cm の高さに離陸した。操縦する機構はなく、数回の飛行を行ったあと、実験はとりやめられた。

Sunday, January 01, 2006

Table of contents

アルバトロス社
世界初の航空輸送会社
グラーデ単葉機
ハンス・グラーデ
  • ブレリオXI
    ガブリエル・ヴォアザン
    ルイ・ブレリオ
    ティルトローター
    ヘリコプター
    ポール・コルニュ
    世界初のヘリコプター
    サミュエル・ラングレー
    ライトフライヤー号
    ライト兄弟
    レシプロエンジン
    ツェッペリン
    初の硬式飛行船
    クレマン・アーデル
    カール・ナイバーグ
    二宮忠八
    アスペクト比
    オットー・リリエンタール
    半硬式飛行船
    硬式飛行船
    軟式飛行船
    ヒンデンブルグ号爆発事故
    飛行船アルベルト・サントス・デュモン
    アンリ・ジファール
    史上初の操縦可能な航空機、飛行船の誕生
    ジョージ・ケイリー
    浮田 幸吉
    飛行機の誕生
    シャルルの法則
    ジャック・シャルル
    モンゴルフィエ兄弟
    人類初飛行
    紀元前~17世紀

  • Saturday, December 31, 2005

    サミュエル・ラングレー

    サミュエル・ラングレー(Samuel Pierpont Langley, 1834/8/22 – 1906/2/27)はアメリカの天文学者、発明家で航空のパイオニアの一人である。スミソニアン博物館の3代目の事務局長でスミソニアン天体物理観測所の設立者であった。1903年に2回の飛行試験を試みたが成功しなかった。

    マサチューセッツに生まれ、独学で天文学を学びアレゲーニ天文台の所長とウェスタン大学の天文学と物理学の教授になった。

    ラングレーの飛行機の実験はゴム動力の模型とグライダーから始められた。回転装置を作って翼の研究を行った。軍から5万ドルの予算を得て有人飛行機の製作を試みた。1896年試作した無人の動力付の模型は2キロメートル以上を飛行した。有人飛行実験は、危険を小さくするためにポトマック川の水上で行うことにした。

    1903年10月7日と12月8日の実験はカタパルトから射出する方法で行われたが、2回とも成功しなかった。技術的には、ライト兄弟のものより、重量あたりの出力の大きいエンジンを搭載していた。2枚の主翼を前後に配置したタンデム翼の機体でピッチとヨーの制御はできたがロールの制御はできなかった。2回目の飛行ではカタパルトから打ち出された機体は反転して川に墜落した。

    1914年にライト兄弟と飛行機の特許で争っていたグレン・カーチスによってラングレーの飛行機が復元され、飛行できたことを示されたがが裁判所はライト兄弟の特許を認めた。

    天文学の分野では1886年に太陽物理学への貢献によりアメリカ科学アカデミーからヘンリー・ドレーパー・メダルを受賞している。同じく1886年にランフォード・メダルを受賞している。

    ライトフライヤー号

    ライトフライヤー号は、ライト兄弟が開発した、世界で初めて有人動力飛行に成功した飛行機。主翼は複葉で、ガソリンエンジン一台を動力として、直径2.6mのプロペラ2つをチェーンによって駆動した。トルクを打ち消すために、2つのプロペラはそれぞれ逆回転に回転させた。操縦は主翼をねじることによって行った。
    1903/12/17にアメリカ合衆国 ノースカロライナ州キティーホークにて初飛行に成功した。計4回の飛行を行い、4回目の飛行では59秒間260mを飛行した。その後停止中の機体が強風で転倒し損傷した。

    ライト兄弟

    ウィルバー・ライト(Wilbur Wright、1867/4/16 – 1912/5/30)
    オーヴィル・ライト(Orville Wright、1871/8/19 – 1948/1/30)
    の兄弟で元は自転車屋であった。ドイツの航空研究家で兄弟が大ファンであったグライダーを開発したオットー・リリエンタールが1896年に事故死したことをきっかけに、飛行機の研究をするようになる。

    先人の挑戦がことごとく失敗を重ねてきたのに対し、ライト兄弟は当時としてはきわめて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の作成を行った。 研究の初期には、当時の飛行機開発の最先端を行っていたサミュエル・ラングレー教授から研究資料の提供を受けていたりした。

    そして1900ライト兄弟が「グライダー No.1」を初めは凧として、後にはグライダーとして飛ばす。

    1903/12/17にノースカロライナ州のキティホークにて「ライトフライヤー号」によって人類で初の飛行機による有人動力飛行に成功した。それまでの飛行の試みの多くが、「ジャンプ」に毛の生えたものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初の世間はかなり冷淡であり、しかもアメリカでは様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられた。

    当時はサイエンティフィック・アメリカン、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、アメリカ合衆国陸軍、ジョン・ホプキンス大学の数学と天文学の教授サイモン・ニューコムなど各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞等でライト兄弟の試みに対し、「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。

    レシプロエンジン

    レシプロエンジン(Reciprocating engine)は、往復動機関あるいはピストンエンジン・ピストン機関ともいう熱機関。燃料の燃焼による熱エネルギーを作動流体の圧力としてまず往復運動に変換し、ついで回転運動の力学的エネルギーとして取り出す原動機である。自動車用エンジンとしては最も一般的なもの。ほかに、発電機、航空機などにも用いられる。

    レシプロエンジンは航空機の発達と切り離すことは困難である。航空機の性能はエンジンによってほぼ決定されるため各国はより高性能の航空機を作りあげるために高性能なエンジンを必要とした。そのためにエンジンの性能をあげるためのさまざまな研究は第一次世界大戦から第二次世界大戦においてその多くがなされている。

    ツェッペリン

    ツェッペリン(Zeppelin)とは、20世紀初頭、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した硬式飛行船の一種のことをいう。ツェッペリン飛行船は空気よりも軽い気体を用いた航空機で、空気力学的外皮を被せた剛体枠組構造と、セルと呼ばれる、空気より軽い水素ガスを詰め、完全に枠内に収めた個別の気嚢数個を使用している。外皮は主にアルミニウムなどの軽金属が使われた。乗客・乗員の乗る比較的小型の居住空間が枠組の底部に取り付けられている。動力源は、数基のレシプロエンジンである。

    20世紀初頭に、ツェッペリン伯爵は飛行船の製造事業とともに、DELAG(Deutsche Luftschiffahrt Aktiengesellschaft)という世界初の商業航空会社を創立した。両方の会社とも本拠地はドイツのフリードリヒスハーフェンにあった。

    後に、ツェッペリン伯爵はツェッペリン社の代表をフーゴー・エッケナーと交代した。エッケナーは宣伝の名人であるとともに極めて技量の優れた航空機の機長だった。ツェッペリン社がその絶頂期に達したのはエッケナーの功績によるところが大きい。

    ツェッペリン社は1930年代までは順調に経営され、ドイツからアメリカ合衆国や南米に至る長距離空路を擁した。しかし、大恐慌とナチス党の台頭が会社に災いした。特に、エッケナーとナチスとは犬猿の仲であった。そのため、ツェッペリン社はドイツ政府により1930年代なかばに国有化された。

    また、従来の水素ガスの替わりに、爆発の危険がなく安全なヘリウムガスを使用する予定だった新造船ヒンデンブルク号は、 独米関係の悪化によって、当時唯一のヘリウムガス生産国であったアメリカからの(アメリカは飛行船の軍事転用を恐れていた)供給が滞り、水素ガスを使用し なければならなかった。それは飛行船史上最大の惨事を招く要因になった。1936年、同社の旗艦であるヒンデンブルク号は、アメリカのレイクハースト飛行 場に着陸作業中、火災を起こし墜落、多数の犠牲者を出した。これにより、ツェッペリン飛行船の定期旅客航路の運航は中止され、ツェッペリン社は惨事の数年 後には事実上活動を停止した。(→ヒンデンブルグ号爆発事故

    しかし、約20年間の航空会社の私企業としての運営の間、少なくとも幾分かは利益を生み、ヒンデンブルク号の事故が起こる前までは完全な安全記録を保持していた。

    なお、第一次世界大戦に おいては、ツェッペリン飛行船は偵察機のほか、英国に対する長距離爆撃機としても使用された。戦略的に有効な打撃を与えることはなく、主に恐怖爆撃が中心 であった。また、飛行船は低速で大きく、極めて燃えやすい水素浮揚ガスを使用していたため、イギリス軍が対空防御体勢を固めると、は対空砲や飛行機からの銃撃の容易な的となり、撃墜されることも多かった。

    ツェッペリン飛行船のような硬式飛行船は、たとえそれがツェッペリン社と縁が無くともしばしばツェッペリンと呼ばれた。この種の飛行船はアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連で1920年代から1930年代に掛けて製造された。致死墜落事故が相次いだため製造は中止された。

    初の硬式飛行船

    1900/7/2フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が、初の硬式飛行船ツェッペリン LZ-1を初飛行させる。

    クレマン・アーデル

    クレマン・アーデル(1841/2/4 -1926/3/5)エオレⅢを製作し、1897年10月14日にが飛行実験を行った。ライト兄弟の飛行より前に、1897年の試験で300mほどを飛行したと主張したが、後に発表された、試験に立ち会ったフランス陸軍の報告書には飛行できなかったとされている。

    アーデルは1890年から、自分の設計による軽量の蒸気エンジンを使って飛行機の製作を試みていた。1890年の単発のエオレ号で50mのジャンプをしたとされている。陸軍から資金をえてつくったエオレⅢ(アビオンⅢ)は2台の30馬力の蒸気エンジンとプロペラをもっていた。フランス語の飛行機を意味するアビオンという言葉がこの機体から使われるようになった。胴体上部の4角の箱は蒸気機関の復水器である。

    カール・ナイバーグ

    1987、スウェーデンの発明家カール・ナイバーグ(Carl Rickard Nyberg)がフルガン(固定翼の大型蒸気飛行機で滑走浮揚したが正式な飛行とは認められなかった。

    Flugan :スウェーデン語でハエの意味)はライト兄弟の動力飛行成功の前の1890年代後半に実験された蒸気機関を動力とする飛行機のひとつである。が1897年から製作し1922年まで実験を続けたがジャンプできただけだった。

    5 mの翼幅で13 m²の翼面積で重量は80kgの機体であった。エンジンはトーチを使った蒸気機関で2000回転で10馬力を発生した。

    二宮忠八

    二宮忠八(にのみやちゅうはち、慶応2年6月20日(1866/7/20)- 昭和11年(1936/4/8)は明治時代の技術者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。動力付き有人飛行を着想し、その設計は正しいものであったが、金銭的援助を得られなかったためにライト兄弟に遅れをとってしまった。

    八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗、さらに父幸蔵が忠八が12歳のときに若くして亡くなってしまったために、家は困窮した。このため忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したというが、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。

    明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。そうしたある日、忠八は昼飯を食っているときに滑空しているカラスを見て、そのカラスが羽ばたいていないのに気付く。そして忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛ぶことができるのではないかと考えたのである。

    これを基に忠八は、模型飛行機を作成、明治24年(1891年)4/29、3mの滑走の後10mを飛行させて、世界初のプロペラ飛行実験を成功させた。さらに日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での飛行機の有効性について考え、四枚翼飛行機「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。

    その後大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて支社長にまで昇進するものの飛行機の開発の資金を賄うことはできず、ほかにスポンサーも現れなかったため開発は難航した。そうするうちに明治36年(1903年)12/17、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。それを聞いた忠八は、動力源以外完成していた飛行機の開発を取りやめてしまい、薬の製造の仕事にうちこむようになった。

    大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前却下された飛行機の上申があったことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいものであることがわかった。

    こうしてようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1921年)、忠八を表彰し。その後も数々の表彰を受けた。既に陸軍を引退していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。

    忠吉はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。

    Monday, December 26, 2005

    アスペクト比

    アスペクト比とは物体の大きさの長短の比率のことである。同じ面積ならアスペクト比が大きい方が細長く、小さい方が長短の違いが少ない正方形や円形のような形をとる。

    オットー・リリエンタール

    オットー・リリエンタール(Otto Lilienthal, 1848年5月23日 - 1896年8月10日)はドイツ人で、初期の航空工学(応用空気力学)の発展に貢献した航空パイオニアの1人。

    リリエンタールは、初期には whirling arm を利用して、また後には自然風中で翼型の実験を行い、単なる板状の翼型をした平板翼よりも、翼弦の中央付近がふくらんだキャンバ翼の方が高性能であることを示した。

    リリエンタールはライト兄弟にも影響を与えている。

    1899年に発行した研究資料・実験記録『航空技術の基礎としての鳥の飛行』には、自然風中での実験により得た円弧翼のデータが含まれていた。ライト兄弟は、オクターブ・シャヌートの手を経て一部が英訳されたこの本を入手し、彼らが「リリエンタールの表」と呼んだこの翼型データも利用して、1900年と1901年にグライダーを製作した。しかしながら、いずれも計算通りの十分な揚力が得られなかった。これは、以下のような点が原因だったとされる。

    1. リリエンタールの表は、中央付近がふくらんだ円弧状の翼型、かつ、翼端がとがった翼平面形についてのデータであったのに対して、グライダーには前縁付近がふくらんだ翼型、かつ、ほぼ矩形の翼平面形を採用したこと
    2. 不正確なスミートン係数を使用したこと
    3. アスペクト比が小さすぎた(これはリリエンタールの表とは直接関係しない)

    リリエンタール自身も誤ったスミートン係数を使用しており、ライト兄弟もそれを根拠として使用したと思われるが、計算過程でその影響は打ち消されていたため、「表」の数値そのものは正しかった。ところが、はじめライト兄弟はこれに気づかず、次第に「表」の数値そのものを疑うようになり、結局、自分たちで風洞試験を行って正しいスミートン係数を得た。ただし、彼らも後には「表」が適用できる条件を正しく認識したようである。

    半硬式飛行船

    ゴンドラを吊り下げる部分にだけ金属製の骨格を用いた軟式飛行船。

    硬式飛行船

    金属の枠組みを作ってそれに外皮を貼り、複数の気嚢をその内部に収納する形式。船体の強度が高いため大型化、高速飛行が可能。

    軟式飛行船

    浮揚のためのガスを詰めた気嚢と船体が同一で、ガスの圧力で船体の形を維持する形式。ガスの放出によって圧力が弱まると船体を維持できなくなる。突風などによって船体が変形するとコントロールを失ってしまう。また、一旦気嚢に穴が開くとガスの漏出が全体に影響する。大型化に適しない。

    ヒンデンブルグ号爆発事故

    当時は水素ガスを利用していた。そのため、この事故は水素ガスによるものと推測され、水素ガスを使用する飛行船の安全性に対する信用は失墜し、飛行船が使われなくなる原因となった。しかし、NASAの元研究者アディスン・ベインの研究によると、この事故は、水素ガス爆発ではなく、ヒンデンブルグ号の機体に使われていた布に、酸化鉄と酸化アルミニウムをふくんだ塗料が使われて、これがおりからの雷によって帯電、放電によって火がつきテルミット反応がおきたのではないか、という説を提唱している。

    理由はいくつがあるが、

    1. 当時目撃者の証言や写真から、炎の色がオレンジ色だったということ(水素が燃えるときは無色)
    2. 当時の気象条件として雷雲が発生していて、ヒンデンブルグ号はその中を突っ切るようなコースを取っていたこと

    があげられている。

    飛行船

    機体の大部分を占めるガス袋には水素もしくはヘリウムがつめられている。通常、ガス袋は空気抵抗を低減させるため細長い形状をしており、乗務員や旅客を乗せるゴンドラや、エンジンおよびプロペラなどの推進装置が外部に取り付けられている。

    20世紀前半には、大西洋横断航路などに就航していたが、1937年に発生した「ヒンデンブルグ号」の墜落事故を契機に飛行船の信頼性は失墜し、航空輸送の担い手としての役割を終えた。その後、広告宣伝用や大気圏の観測用等として、不燃性のヘリウムガスを利用した飛行船が小規模に使われている。

    最近は、地上局、人工衛星、と並ぶ第三の情報通信網として「成層圏プラットフォーム」での飛行船の利用が注目されている。地上20kmの成層圏に大型の無人飛行船を停留させ、無線通信の基地局として用いるというものである。基地局として必要な電力は飛行船上面に取り付けられた太陽電池でまかなう。地上局に比べ広範囲をカバーでき、人工衛星に比べ遅延時間が短く運用コストが低いという利点がある。

    「成層圏プラットフォーム」実用化に向けた取り組みは世界各国でなされており、日本では政府による「ミレニアムプロジェクト」の一つとして、成層圏滞空飛行船を利用した通信・放送サービスが計画されており、2004年現在北海道の大樹町で実験機(軟式飛行船)の飛行試験が行われている。

    飛行船には硬式飛行船軟式飛行船半硬式飛行船がある。

    Tuesday, December 20, 2005

    アルベルト・サントス・デュモン

    アルベルト・サントス・デュモン(Alberto Santos-Dumont1873/7/20 -1932/7/23)

    ブラジル、リオデジャネイロの裕福な家庭に生まれたサントス・ドゥモンは、故郷のブラジルやフランスでは飛行機の父、飛行機王と呼ばれるほど偉大な発明家であり、ライト兄弟以前に飛行船を飛ばすことに成功、安定した飛行機を開発し、未完に終わったもののヘリコプターをも開発していたことで知られる。

    成年後に移り住んだフランスにおいて、様々な飛行記録をつくった。1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。1906/10/22には先尾翼の動力機14-bis号で公開で約60mを飛行。11/12再び公開で220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得した。

    1910年頃から発病し、サンパウロ州グアルジャで1932年に首を吊って自殺したと信じられている。ブラジルにはサントス・ドゥモンの名前を冠した空港や博物館などの公共施設や勲章がある他、催しも多い。

    アンリ・ジファール

    アンリ・ジファール(1825 - 1882)フランスの軽飛行操縦士。1825/9/24に世界初の友人飛行船の飛行に成功した。

    ジファールの蒸気エンジン・プロペラ駆動式の飛行船は長さ44mの太い葉巻たばこ形をした軟式ガス袋を用い、約3馬力の蒸気エンジンに、プロペラ推進式で、パリからトラペスまでの約27Kmを3時間半ほどで結んだ。ジファールは人々に気球飛行を体験させ、研究資金を稼いでいた。ナポレオン3世も乗客の一人であった。

    史上初の操縦可能な航空機、飛行船の誕生

    1852年、フランスの軽航空機操縦士アンリ・ジファール により世界初の有人飛行船の飛行に成功した。
    1898年にはブラジルのアルベルト・サントス・デュモン が自作の気球飛行に成功し、同年自作の飛行船の飛行にも成功している。デュモンは後に飛行機も制作した飛行家である。このあたりから動力付きの操舵可能な気球、飛行船が次々と世に誕生した。

    Saturday, December 17, 2005

    ジョージ・ケイリー

    ジョージ・ケイリー(Sir George Cayley 、1773/12/27 - 1857/12/15はイギリスの航空のパイオニアである。航空工学の初期の研究を行うとともに、グライダー模型・有人のグライダーを製作した。 19歳で男爵家をついだケイリーは航空の研究を行った。翼の揚力を計測する装置を作り実験を行った。


    1809年から1810年に空中航行に関する 論文を発表している。1804年には、手投げのグライダーではあるが固定翼機の原理をおさえた模型を製作している。その後飛行船用の蒸気エンジンなどの研 究をおこなっていたが、1843年のウィリアム・ヘンソンの蒸気飛行機計画の騒ぎから、再び機体の研究を行うようになった。

    1849年に三葉のグライ ダー、1853年には単葉のグライダーを製作し、ケイリーの馬車の御者の操縦で100m以上の飛行に成功した。パイロットが「自分は飛ぶために雇われたのではない」といった話は有名な逸話である。

    浮田 幸吉

    浮田 幸吉(1757/?/? - 1847/8/21)は、児島の内海に面し、漁港としても、また江戸や上方への商船の寄港地としても栄えていた備前国八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の宿屋『桜屋』に生まれる。表具史として生計を立てるようになる。

    初飛行には、鳩を捕まえ解剖までし研究を行い、設計をした。両腕に翼を持ち鳥のように羽ばたくことで飛ぼうとした。この挑戦は八幡宮の石段で行われたが墜落し、幸吉は足を折っている。

    この経験から羽ばたくことは不可能だと考え、羽ばたかずに飛べる鳥、鳶を捕まえ研究し設計、飛行に望んだ。この2号機の翼は9×2m程で、橋の上から飛び出ように挑戦は行われた。このときの飛行記録は時間にして10秒、距離は30m程であったとされている。

    この結果、幸吉は天狗とされ奉行に裁かれ所払い(追放)され駿河に移った。

    飛行機の誕生

    1785/8/21に浮田 幸吉によるフライトが成功したとされている。

    1800年代に入るとジョージ・ケイリーによって飛行機の原型が研究、開発された。

    シャルルの法則

    シャルルの法則は圧力一定の時、気体の体積が絶対温度に比例するという法則でジャック・シャルルが発見したためこの名がある。

    気体の体積をV、絶対温度をTとするとV=nRTとなる。(V:体積,n:モル数,R:気体定数(R= 8.314J/km),T:絶対温度)

    ジャック・シャルル

    ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル(Jacques Alexandre César Charles, 1746/11/12 - 18234/7)はシャルルの法則 を発見したことで有名である。

    モンゴルフィエ兄弟 の熱気球の実験が成功したのをうけて、フランス科学院は熱膨張した空気よりも比重の小さい水素をつかった気球を製作することにした。シャルルが水素を発生させる方法を受け持つことになった。

    500kgほどの屑鉄に200kgほどの硫酸を注いで作った水素をつめて、1783/8/27に径が約4mで体積33m3の無人の小型気球が飛行に成功した。引き続き1783/12/1、380m3の体積をもち2人が乗れる気球によって、シャルルとロベールが2時間の有人飛行に成功した。

    モンゴルフィエ兄弟 の熱気球での有人飛行の成功の10日ほど後である。

    モンゴルフィエ兄弟

    モンゴルフィエ兄弟とは、兄のジョセフ・ミシェル・モンゴルフィエ(Joseph Michel Montgolfier、1740/8/26 - 1810/6/26)と、弟のジャック・エティエンヌ・モンゴルフィエ(Jacques Étienne Montgolfier、1745/1/6 - 1799/8/2)のフランスの兄弟。

    モンゴルフィエ式の熱気球を発明し、世界で初の有人飛行を行った。

    兄弟は、フランスのリヨンの南方の町アノネーで製紙業者の息子に生まれた。幼い頃から紙に親しんでいた彼らは、焚き火をした際に発生する煙を紙袋に溜めると、紙袋が浮かび上がることに気がついた。

    彼らは袋を大型にすれば、人も浮かび上がることができるのではないかと考えるようになった。

    1782年頃から、兄弟は絹や麻布を材料にして、室内テストを行うようになった。やがて屋外テストも行い始め、1782/12/14には18㎡の絹製の袋を高度250mまで上昇させることに成功した。

    1783/6/5、彼らはアノネーでリンネル製の袋を使って最初の公開飛行を行った。袋は1600-2000mまで上昇し、2Kmの距離を約10分に渡って滞空した。当時は暖められた空気が袋を上昇させることがわかっておらず、兄弟は物を燃やした煙の中に上昇させる成分が含まれていると考えた。そのため、煙は「モンゴルフィエのガス」と呼ばれた。現在、この6/5は、熱気球の日とされている。

    1783/9/19の実験兄弟の実験は当時のフランス王ルイ16世の興味を引き、1783/9/19、王の眼前で実験が行われることとなった。この時、兄弟は王から有人飛行の許可をもらうために、ヒツジ、アヒル、ニワトリを気球に吊り下げた籠に入れた。動物たちが生きていれば、上空でも酸素が無くならないとわかるからである。実験は成功し、二人はルイ16世から勲章を与えられた。

    1783/11/21、最初の有人飛行が行われた。ただし、兄弟は気球に乗らず、ピラトール・ド・ロジェとマルキ・ダルランド侯爵が飛行した。二人を乗せた気球は100mまで上昇し、パリ上空の9Kmの距離を25分間に渡って飛行した。その後、どちらかは不明だが、兄弟の一方が飛行したという。

    しかし、この10日後に、フランス科学院のジャック・シャルル が水素気球による有人飛行に成功した。水素気球は熱気球に比べて効率的だったため、間もなく取って代わられた。

    1960年代にレイブン・インダストリーズ(Raven Industries)が、ナイロン製でバーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を開発すると、モンゴルフィエ式の熱気球が見直されるようになった。

    人類初飛行

    1783/10/15にフランスのモンゴルフィエ兄弟 により制作された熱気球によって人類の初飛行がなされた。

    熱気球時代の幕開けである。さらにこの後水素気球も発明され、女性を含め多くの気球乗りが誕生した。気球には次第にプロペラによる動力推進装置やジェット 推進機が取り付けられ、次代の飛行船へとつながっていった。

    1794にはフランス陸軍により、初めて実戦使用されたが、これは偵察機としてで あった。しかし、気球は推進力が弱くなにより形が大きいため敵から発見されやすく、また火災事故が後をたたないなど、兵器として使用するには致命的な弱点 があった。
    1783/10/15にフランスのモンゴルフィエ兄弟 により制作された熱気球によって人類の初飛行がなされた。

    熱気球時代の幕開けである。さらにこの後水素気球も発明され、女性を含め多くの気球乗りが誕生した。気球には次第にプロペラによる動力推進装置やジェット 推進機が取り付けられ、次代の飛行船へとつながっていった。

    1794にはフランス陸軍により、初めて実戦使用されたが、これは偵察機としてで あった。しかし、気球は推進力が弱くなにより形が大きいため敵から発見されやすく、また火災事故が後をたたないなど、兵器として使用するには致命的な弱点 があった。

    紀元前~17世紀

    紀元前から 大空を飛ぼうとする人間の実験は行われていたようである。高い塔の上から翼を付けて飛び降 りた人間の数は聞いた事もあるでしょう。

    その中でもイングランドのマームスベリー僧院の 塔から飛び降りた僧侶の話などが有名だ。 しかし、実際の飛行へ結びついたのは、このようなタワージャンパーたちではなく、中国での凧上げや火薬によるロケット爆弾であった。

    この二つ は共に軍事技術として発達した。 そして、18世紀に入ると蒸気によって空気が上昇する現象が注目さ れ、熱気球の実験が盛んに行われるようになった。

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